ロベール・ブレッソン『やさしい女』

結構前に観た。
面白かった、というかしっくり来たというか、好きなタイプだった。コミュニケーションの詳細を地味に映し、それが噛み合わずも、ただなんとなく進み、いずれ取り返しのつかない結果に着地する、そういうのにヒューマンを感じて、あら良いですねえと思う。
ミヒャエルハネケとかがモロにそれなのだが、じわじわした日常の中で突然キレたり泣いたり首切ったり激しい場面を上手い役者が演じるハネケと
素人が大人しく動き棒読みするブレッソンとは演出が逆で、ブレッソンのほうが評価高いと聞くと、それは映画好きな人の間ではそうだろうな。


そしてこれを見てからだいぶ後の一昨日『スリ』を観た。相変わらず抑揚のない動き&主人公の語りで話が進み、もう台詞なのか語り部分なのかよく分からない。
なんか『罪と罰』みたいなかったるい話だなと思ってたら実際それが下敷きだった。*1
しかし着地するところというかジャンヌの存在が都合良すぎてうざいし、そもそもスリと殺人じゃ全然違うじゃん、とか、主人公の理論が何の説得力ももたないし何の引っ掛かりにもならん!とか、
大して重要でなさそうな脚本に対する突っ込みという俗っぽい感想になってしまうが、なぜかつまらないとは思わなくて、めちゃくちゃ眠かったけど観たいという気持ちで最後まで保てた。
何が面白いと思うのかいまいち分からないけど、単に映像が良いにしてもどういいのかとかもうちょっと説得力のある感想を書くためにもう少しいろんなブレッソンを観たい。

*1:ドストエフスキ一冊も読んだことないけどなんで知ってるのだっけと思ったら罪と罰はなぜか大島弓子の漫画で読んだ

忙しくて暇と退屈の

忙しくて、わざわざ買った増補版の『暇と退屈の倫理学』が読めない。読み進められない。国分こういちろうの一人称は俺だった。
この本の編集者はかの有名なレーモンクノーの『文体練習』も担当した人らしい。ほんとか。
装丁は仲條正義、これはほんとだ。
『文体練習』読んでないが、最近まで『文体演習』だと思っていた。演習のほうが格好良いのにと思ったが、もともと格好つけた本だしどっちでも結局読まなそうだ。

寝入りばなの、死ぬのこわいやだやだやだやだやだ

絶対に死ぬなんて。
絶対にそれが来るなんて永遠の無が起こりうるなんて、意識はあっという間に消え必ず永遠の無を迎えるだなんて、というかむしろそれが確実である以上もう永遠の無の中にいるわけだ。
が、それにしてもそれは私にとって全然自然なことじゃなくて、圧倒的不条理を感じる。やだやだやだやだやだ!という私と同様の恐怖を抱え、今まで数え切れない数の人間が死んでいったなんて。


という普通のタナトフォビアで、大抵は真っ暗な布団の中で起こり、布団をがばっと蹴飛ばして電灯をつけて「やだやだやだやだ」「うそだうそだうそだ」と呟いてるうちに平気になってまた寝る。
これと長年付き合っているため色々思い出深い「死ぬの怖いパニック」のシーンがある。

小学生の時、夏の昼間から恐竜の歴史を思ってその何億とかの時間が過ぎたことに恐怖し「うわーっ」となってふらふらしていたら母親に熱中症に間違えられたとか、

旅館やおばあちゃん家など日本家屋の畳で寝るとその雰囲気からか結構な頻度で起こるので外泊は苦手だったとか、

中学生の時、祖父が亡くなったことがきっかけで初めて死の恐怖を自分の姉に告白したらものすごく分かってもらえて、その感覚が同じで驚いたとか、でも親には全く通じなかったこととか、

高校生の時、夜のバスの中それなりに他人がいる中で恐怖を発症、「うわーっ」ってなって焦って顔を覆って我慢したこととか、

十代後半に姉と一緒に住んだ時、彼女が夜中本気で恐ろしい大きな叫び声をあげて、それが私にとっての「うわーっ」「やだやだやだやだ」なのだけど、桁が違って驚いたこととか、
聞くと姉はその叫び声によって警察を呼ばれたこともあるとか。




子供の頃はコンスタントにあったけど、いずれ消えるのかなと思いつつ十代後半でも頻発し、しかし働きだしたら忙しさゆえにぐっと減り、これが大人になるってことかと繊細な青少年時代への別れを感じた。が、相変わらず忙しい二十代後半ここにきて最近また良く発生するようになる。

しかし意識が永遠どころか1日単位でも途切れていることのように、死への恐怖でパニックになるのもほとんど継続しないというか数十秒のことなので別に困りはしないが、あんまり良くあると普段の精神に影響を及ぼして妙にせんちめんたるとか自棄っぱちになりそうでそれも嫌だな。



そういった内容のことを、いろんな人と語り合いたい馴れ合いたい、それぞれの「死ぬの怖いエピソード」を知りたいと思うも(実際の知り合いでタナトフォビアなのは実の姉だけだ)、意外とそんな機会は無いし、正直そんなに面白く興味深く語れることじゃないし、「ほんと怖いよね」「ね、しょうもないよね」「でも死ぬしね」「ほんとだよね」程度の会話で行き詰まりそうである。なのでなんか、その手の(わかんないけど永井均とか?)哲学の本とか読めば良いのかもしれないが、これほど確固たる共通の前提条件なのにこれほど語られないのももったいないとも思う。

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』

感想。
フルスタリョフ、車を』を見たときの驚きはなく、心を揺らされるとか何か自身に大きな影響を与えたりするかと言うとそうでもなく、
というよりやはり、そういう意味の無い凄いさが凄い!、みたいな何とも言えない広がりようがない感想が多いのも納得できる。語るべきことはそんなにないけどとりあえず自分も「凄い」って言っておきたい程度のものを見た。


こんなもんどうやって考えて作り撮影したのか。明らかに金がかかっており、今では失われた技術を使って作られた古代の建築物的な驚きもある。
こんな精度の異世界が全部つくりもので、
あんなに肉がぶら下がり常に泥泥で死体だらけなのに撮影現場が臭くなかったらそれも凄い。実際に臭くても凄いけど。
登場する人が皆何でもくんくん匂い嗅いで判断するのも良かった。
三時間尻は痛いし辛かったが。


見た後は軽く雑念が無くなり、ちょっとグジャラート指数*1が下がって、もっとまっすぐな動物に少しだけ近づけるのではないか。


ハネケやザイドルが好きだが、見るとたぶん嫌な感じにグジャラート指数が上がってしまうので、何か不安やちょっと辛い時はゲルマンを観よう。あんまり辛い時に観てあの世界に引きずりこまれたら本当に地獄だが。

*1:上田岳弘『太陽・惑星』あんまり面白くなかった

アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!』

きっともうすぐ『神々のたそがれ』を観に行くが、その前にこれがどうすごかったのかを考えると超単純に映像だ。
ゆるい例えだが子供の頃連れて行かれた美術館で見た何が写ってるのかわからないのに妙に怖くて強烈な印象を残すモノクロ写真的で、それが映像としてずっと続くのだからそれはとてもわかりやすく凄い。ライティングがすげードラスティックと言うのか。


そしてその中で動く人たちも凄い。
自分と、自分の知ってる人間と全然違う。
全く違う秩序で動き、とてつもない強度で生きているようにみえる。


そして主人公がかっこいい。強くて狙われて逃げてボコボコにされて解放されて最後復活しててかっこいい。
いつもならちょっと響いてしまいそうな、かわいそうな脇役の「なんで俺ばっかり!」というかわいそうな叫びもあんまり気にならない。そういう話じゃない。
凄い面白かった。

ジーン・ウルフ『ピース』

こんなIDにしたくせにいまさら読んだ。

前評判は面白いとされつつ、重厚とか難解とか油断ならないとか言われているのでああどうしよう恐いなあと恐れつつ読むも、『ケルベロス〜』よりも、もしかしたら『デス博士』よりも読みやすい。

全体を手堅くまとめる「古き良きアメリカ」と思われるエキゾチックで幻想的(というか時代背景をいまいち把握出来てないのだが)な濃い雰囲気に、なんかやたら鮮やかな情景描写、場面は次々変わり全く停滞が無く読め(人名が出るたびにページを行き来するが)かなり映像的(別に好きな監督でもなく映像化も望まないが絵だけで言うとレオスカラックスのイメージ…)
そこに挟まれるお話、語られるお話、中断されるお話。

なるほどおもしろいおもしろい!
結局自分は「お話」好きなんだよなと思い知る。
でもお話という形はとてもシンプルで紋切り型になるのは仕方ない、入りやすいものほど飽きやすい。
だから技巧とか仕掛けと評されている部分は、あくまで「のめり込む」ためのテクニックであって、すべてはただ「お話」のために書かれているものだと思い面白く読んでいたわけだが、
訳者による解説部分に、この小説における「仕掛けがあると思われる繋がる箇所、何かあると思われる整合性の無い箇所」が提示され「さあ、君も君なりの『ピース』を解釈してみよう!」みたいなものが載っていて、うーーーーーん。

そう言われると確かに何かしら意図されてるような繋がりや台詞はあるが、それは「解釈」しないと駄目?という、「背景に隠された謎とか不可解な点をスルーしつつ、かつとても面白く読んだ人間が抱くストレートな反発心」をストレートに抱いてしまったのだが、
何よりその解説文に例として提示される「解釈」がなんともしょぼい、魅力が無いのが気になる。以下解説の内容が少しネタバレだが、


オールデン・デニス・ウィアが死んでるとか悪魔だとか、それによって今まで読んだものの見方が変わらないと思う。「となりのトトロ」のメイとサツキが死んでる都市伝説くらいどうでも良い。誰かが誰かを殺してることで何かが揺らぐようなお話とか構造ではない(と思う)。
記憶も現実も幻想も混ざるまでもなく整合性は無く適当なものだ。

「意味の無い整合性の無さ」はお話にとってすごく大事だと思っているので(それ事体が面白みだから)読み解こうとする時にその「整合性の無さ」が引っ張り出されるのが何とも嫌だ。
(そしてなにより面白い本を自分のつまらん解釈で小さくまとめるのももったいないからしない!)

内容を全然分かってなくても面白い、というのが小説の素晴らしいところであると思うがしかし私も結局どう面白かったかを全く語れておらず困る。


それにしてもなんで国書刊行会はハードカバーにスピンつけないのだろうか。

村上春樹と「女の怒り」

いいですか、覚えるのはたった二つ - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

理論のある怒りだってあると思う。属性により最初から話を聞いてもらえなくなるのは辛い。関係性の問題なのだから、出来れば女性で括らないでほしかった

2015/03/21 11:54

理論のある怒りだってあると思う。属性により最初から話を聞いてもらえなくなるのは辛い。関係性の問題なのだから、出来れば女性で括らないでほしかった - islandhakase のコメント / はてなブックマーク



星がついて嬉しかったのだが、改めて読むと何だか慎重というかビクビクしたコメントだった。

村上春樹とこの質問者は、男女の差について真剣に語っているというより内輪ネタ的な(そしてたぶんその内輪では洒落ている)ジョークで盛り上がっているだけのようで、だからこそ色々と思うところがあるのだがそれは置いておいて、この適当なノリへの突っ込みとしてはもっと簡潔に「主語がでけえよ!」でも良かったなと(他のコメントにある通り)思う。*1
どちらにせよ当たり前に、そういう形で怒る男性も女性もいるし、怒らない男性も女性もいる。極普通の結論。



しかし今更気がついたが、彼らの言う「女性の怒りプロセス」2種類の受け取り方が出来る。
(一応女性が怒る側としての夫婦で例にすると)

妻(怒る側)のストレスが、夫(対象者)とは関係無い部分で発生し溜まった物にも関わらず、夫がたまたま地雷を踏んでしまったために、今までのストレスに対する怒りを「発散のために」ぶつけられるというパターン。これは完全に理不尽だし、天災と思って過ぎ去るのを待つという対処は間違っていないように思える。*2


しかしそれとは別に、妻のストレスが例えば夫とのコミニュケーション不和が積み重なったものだった等、多少なりとも夫や普段の生活など一貫した原因が関わっているのパターン。こうなるとスルーして機械的に平謝りよりも、反論したり質問したりで話し合いに持っていき、原因を潰そうとした方が建設的に思える。
怒りを認めつつ、その怒りや攻撃が自分とってどのようにダメージがあり困惑しているのかを説明すれば、冷静になる人も結構いるのではないか。



そもそも怒りを持つこと自体もストレスだし、怒られるのはもっとストレスで無いに越した事はないだろう。
もちろん天災としてスルーすることで上手くいっている人も沢山いるのだろうが、自分とそのパートナーの関係を一般化しない方が良いのではないかという普通の結論だ。惚気るのも愚痴るのも自由なのだし「僕の奥さんのようなある種の女性」って書けば良いのにと(余計なお世話だが)思う。

*1:そう書かなかったのはジェンダーというテーマに自分がかなり萎縮してるからで、こういった男女差の話になる際になぜか出てくる「やっぱり女は感情的」という言葉を見たときに自分に刺さらないように少しでも理論ぽく、少しでも穏やかにとする防御反応のためだ。萎縮しすぎ。

*2:しかし私は夫やその他周りの人にこんな理不尽な怒りをぶつけたことは無いと思う。