円城塔が帯ならば 『インディゴ』クレメンス・J・ゼッツ

円城塔が帯を書いていたジョン・ヴァーリィがめちゃくちゃ良くて(帯文も良い。『ブルー・シャンペン』は傑作すぎるしコロナウィルス流行が始まった時は『残像』みたいな設定が作れないか考えたよね)それから出来るだけ円城帯を読もうとしたものの、

オーストリア文学、挟み込まれる謎の写真、これはゼーバルト(全く読んだことない)みたいな感じ!? 

と思いきや前半はマキューアンやウェルベック的な自意識の人々の会話劇で妙に読みやすい。

当然のような不穏さと、あえてストレートに突きつけてこないような不気味な残酷さ、「どこへ向かうのか・どこへも向かわないのか」のワクワク感があり、後半1/3くらいからの「いよいよ皆何を言ってるかわからない、会話も比較的破綻してる」部分が1番面白い。

(それにしてもぶっ飛んでるゼッツに比べてロベルトの小物感が愛おしく、2人の意識のリンクに関しては、なぜか優しさと安心を感じる…)

 

超頻繁に挟まれるファイルの記述に脱線するゼッツの会話(小話)、後半の「フェレンツ」の語る赤ちゃんポストの話など、この「物語in物語」構造はジーン・ウルフの「ピース」っぽいと言っても良いのでは。(しかし同じ不穏系でも方向性が全然違って、読者を巻き込むゼッツと、登場人物に寄り添うウルフ)

 

しかし、探究心と教養のない読者としては、「フィクションとファクト」仕様(巧妙な虚実ない混ぜ)にはそこまで燃えないし、割とどちらでも良いかなという気持ちです。

『ピース』と同様に、「解釈」まで進むパワーが無いので、「わけわからん物語を読む快感がありました」で終わりで「フェアエンド」を探そうとも思わないのですが、勿体無いというのも多少は感じる。

土星の環』を読むべきか。(たぶん読まない)